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老いの春を、煌いて生きる

mahorobayy.exblog.jp

悔いなく生き切ることを目指す75歳の青春日記

病気は天からのプレゼント?

<前書き> 
現代医学の現場で最新の医療機器を駆使し、また様々な医薬や治療法を動員して行われている病気治療が人々に与えている恩恵は、計り知れないものがあると思います。
しかしながら、対症療法を中心とした今の医学のあり方を続けるならば、いずれ健康保険の収支は破滅的状態になり、存続するためにはわれわれ国民の負担を限りなく増やさざるを得なくなるのではないでしょうか。

 そこで、現在病気や症状に苦しんでいる方や専門知識をお持ちの医師の皆さんからは、なんと不謹慎な とご批判を受けることも覚悟の上で、病気というものを 従来とは少し異なる観点で眺め、そこから病気直しではない医学、予防医学を超える真の健康創りの道を模索する旅への糸口を探してみたいと思います。


<①症状即療法という観点> 
次の文章は免疫学者の安保徹医学博士の「病気は自分で治す」98ページからの抜粋です。

 「膠原病やガン、あるいは風邪で起こる発熱は、実は体温が上がってリンパ球が働き出すために最高の体調なのです。昔から言われているように、熱が出たら、からだを温かくしてゆっくり休めばいいのです。
  (中略)
 関節が破壊されてしまったら、修復するために関節の腫れや発熱が必要になりますし、ガンの自然退縮の前には発熱が大きな力になります。風の発熱も、ウィルスと闘っている恵みの熱なのです。肩こりや腰痛は、温めて血流を増やせば治ります。なぜそうなってしまったのか、その原因と経緯を考えることが出来れば、熱を下げてしまうことの弊害はすぐに理解できるでしょう。」

 発熱は多くの場合必然的に発汗を伴います。これにより体内にたまった毒素を排泄するという目的も達せられるでしょう。また同じ目的から下痢を伴うことが良くあります。
 このように、症状は自己治癒のための整体の健全な働きがおもてに表れたものだから、健やかに経過させれば、自然に健康が回復するという観点にたつと、対症療法には疑問が生まれてくるのではないでしょうか。
 
 このような観点に立つならば、野口整体のように高熱時に後頭部をさらに暖めることで速やかに熱のピークを超えさせたり、西式健康法のように、例えば芥子シップなどで血行を促し、足湯などで発汗を促進して毒出し(新陳代謝)をサポートし、発熱と発汗によって失われる水とビタミンCと食塩をすばやく補給すること などが自然な手当てであるとする観点もうなずけるのではないでしょうか。


<②生存のための制御装置という観点> 
「私は頑丈だから」 と日ごろから健康を自慢し、仕事では無理に無理を重ねてきた人が当然急病で倒れることがあります。
倒れるほどの重症になる場合、それまでにも色んな形で前兆は出ていたはずなのですが、往々にしてこのような人は、自分の健康を過信し、あるいは(多くの場合潜在意識レベルで休むことや弱音を吐くことへの強い恐れを持っており)前兆をあえて軽視して、こんなことくらいでは休んでいられないと突っ走ってしまいます。


 そこで体は、生命の存続のためには力づくでも休ませようとするため、倒れるような症状を引き起こすことがあるのだと思われます。別の見方をすれば、「休んではいけない」という信念で自分を駆り立てている人に、休む口実を与え救いの手を差し伸べる点からのプレゼントだと見ることも出来るのではないでしょうか。

 テレビで頭痛薬のコマーシャルが流れるたびに、私は背筋が寒くなります。
 頭痛という警報装置で、「ちょっと止まりなさい。チェックしなければ体にとっては重大な結果を及ぼすようなことが始まっていますよ」というお知らせと、「とりあえずちょっと止まって休みなさい」というアドバイスが来ているのかもしれないのに、頭痛薬を飲んで痛みが治まったから良かったと笑っている 画面上の能天気な親子の姿に、私は「この後どうなるのだろう」と思ってしまうのです。だって痛みが止まっても、それによって体が気づいてほしかった本当の原因は放置されたままなのですから。


<③気づきへのチャンスという観点> 
 下記の文章は「かなさん」という人のブログから転載させていただきました。


私が病気になって嬉しかったことは、自分を大切にしていいんだ、ってこと。
自分が、かけがえのないたった一つの存在だと実感できたこと。
優しくされること、親切にされることがどんなに素晴らしいことかわかったこと。
病気はプレゼントだった。
神様からのプレゼントだった!
どうもありがとう!って言いたいんだよね、
本当にいいことばっかりでしょ、病気って。
家族と心がつながったし、精神科にもいけた、娘を客観的に見れた、
自分を大切にするのはまず自分だと知った、まいにち同じリズムの生活の重要なことをしった、
外に出ず、空を眺めるだけの日々の凄さを知った、「努力する」のをやめることを知った、「無理してがんばる」のをやめることを知った。
価値は自分が作りだすことを知った、世間の目や、誰かと比べることの無い世界でも自分の存在を実感できると知った。
一期一会を知った。世代を超えた、心の友達が出来た。
素敵なことばかりだった。幸せな入院生活だった。
また入院したいというのはウソだけど、幸せに暮らすことについて良くわかった。
病気になれて良かった!病気にならなければ幸せについてここまで知れなかった。
幸せは世間や流行がつくりだすのではなく、自分の心の中にあり、優しさや親切の中にあるんだよなあ。
ガンはしあわせな病気だと思う。
痛くもかゆくもない、そして即死しない。
死ぬまでの何ヶ月かで、やりのこしたことを出来る、出会った人にお礼がいえる。
人間だれしも余命で生きている。それがあと何ヶ月か知っただけでこんなに幸せな日々が送れる!
後先考えず、やりたいことだけをやれる。
ガンだと知っただけで一瞬一瞬を輝かしく生きることが出来る

   2000年12月11日(月)の日記より転載


http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Green/2103/2000-12.htm

 この文章の中にほとんどすべてが語りつくされていますから、今更説明も必要ないでしょう。
 
 どんな病気も、それが症状として現れるにはそれ相応の原因があるはずです。
それが偏った生活習慣によるものなのか、長く続いたストレスによるものなのか、誤った意識の持ち方によるものなのか、食事の偏りによるものなのか、不適切な環境に身をおき続けたからなのか・・・いずれにせよ何か自分の命の流れに対して不調和を創り出さなければ、病気にはならないでしょう。しかもその期間や程度が長かったり強かったりすれば、積み重ねられた不調和を解消する時間も長くなったり大きなエネルギーを必要とするのは自然なことだと思うのです。


(余談ですが、病院で専門家に精密検査をしてもらえば、その病気を創り出した本当の原因が分かると期待しても無駄なのです。
なぜなら、ほとんどの医師は、症状が現れてからの状態の変化などについては詳しく聞きますし、カルテにも書きますが、病気になる前にどんな生き方や暮らし方をしていたのか、病気を引き起こした本当の原因は何か を真剣に調べ、検討するという意識は、ほとんどの医師や病院にないからです。)


 その病気になるために、自分がどんな不調和をどのようにして創り出したのかに気づければ、それは人生をよりよく生き、また二度と同じような病気にならないための学びとして生きてきます。

 また健康なときには気づかなかった自分の体や、自分を支えてくれる人たちへの感謝が湧き、人生をよりよく生きることの大切さにも目覚める助けになることでしょう。

 このような観点に立つとき、病気になっている人がその病気と向き合い、価値ある気づきを得るという機会ももたないうちに、対症療法で痛みや症状をとって めでたしめでたしにしてしまうことが本当の愛ある治療といえるのだろうか と私は思うのです。

 
 私のセラピストとしての体験からすると、体のどの部位に、どのような形の症状として現れるかにより、その人の創り出してきた不調和がいったいどんな分野のどのようにして創り出された不調和かがおおよそ推察できるものなのです。

言い換えれば、天(自然)は親切にも、気づきのヒントとして使えるよう、症状を出す部位や出方を選んでくれているように見えるのです。

 もし治療や癒しに関わる人たちがこのような背景を理解し、クライエントさんと共に、症状を仲立ちとした気づきの旅に参加するならば、治療というものの意味は大きく変わってくるのではないでしょうか。

 少なくとも、私はこのような観点からクライエントと関わり続けたいと思っています。


<④愛を受け取るための機会創造という観点>  
今の日本社会では、自由という名の下にエゴの開放と人々の孤立化が恐ろしいほど進んできた と私は思います。

 一方では少子化と共に、母子カプセルのような共依存的親子関係が蔓延すると共に、他方では親殺しや子殺しのニュースも珍しくないほど親子や夫婦の、他人以上に冷たい分離関係も増えているように思われます。

 大家族の深い人間的関わりはとうの昔に失われ、かってのような地域共同体的なつながりも無く、テレビゲームと受験勉強のみで成長してきた世代にとっては、「人とつながる」とか「コミュニケートする」能力もほとんど育っていないように見られます。

 また、「弱くてはビジネスに勝ち残れない」とばかり、感情や愛の交流などを無視して競争社会を走り続けてきた人たちの中にも同じような症状が見られます。

このような人たちは、健康や幸福の実感にとって 愛の交流や人とのつながりの実感がいかに大切かに気づいていないように見えます。


 こんな人たちが、愛を受け取る大切さや喜びを知るための機会として、無意識のうちに病気を引き寄せることもあるように思われるのです。

 このようなニーズから病気になった人は、病気になってみんなから注目され、慰められ、いたわられることで、速やかに回復します。言い換えれば、社会にもっと愛と親密さのある人間関係が増えれば、このような病人は発生しなくてすむということです。


<⑤自己正当化のための口実という観点> 
また、高度成長期の主役を務めてきた団塊の世代の人たちのように、仕事一筋に生きてきて、仕事を離れてみたら 何もやることが見つからず、自立した連れ合いや子供たちは誰も自分の存在など必要ともせず相手にもしてくれないという人たちがいます。
 
このような人たちが選択する対応手段の一つが病気になることなのです。

病気になることで、「存在価値を見出すことの出来ない自分」という存在から目を背け、また誰の役にも立てない理由が正当化でき、しかも少なくとも医者や看護婦は1日に何度かは自分に注意を向けてくれるし、患者仲間とは症状の重さを自慢しあうという形でつながりを実感できるのだから、こんなに都合のいいことはありません。

従ってこのような人たちは、ずっと病気でいることがありがたいのですから、たとえ治療しても、自己存在の肯定と愛のある人間関係、そして生きる意味を与えてくれる人生目標などの基盤が整わない限り、また病院という古巣に戻りたがることは自明のことでしょう。

この観点についての詳細は、このブログの「高齢化社会についての一考察」をご覧下さい。


<⑥免疫力獲得の手段という観点> 
次の文章は小児科医 毛利子来(もうりたねき)先生のホームページから転載させて頂きました。http://www.tanuki.gr.jp/back/mt/mouri9.html


病気にはメリットがある。病気にも良いところがある。 
 こんなことをいうと、「お前は町医者だから、病気は得だと思っているのだろう」
と勘ぐられそうだ。もしかして、医者ともあろうものが非常識と、叱られるかもしれない。
 だが、そのリスクを犯してでも、病気は悪いばかりじゃないぞ、と言い張りたい気持ちに駆られている。

 それというのも、今は、あまりに病気を毛嫌いする風潮が強すぎると思うからだ。
特に子どもだと、ちょっとしたカゼにもかからせたがらない。そのために、外遊びや着るものにひどく神経を使っている。まして熱でもでようものなら大騒ぎ、すぐ治らねばと、医者よ薬よとなる。近所にオタフクカゼや風疹やの子がでると、お互いに遊ばせない。
保育園や幼稚園では、伝染する病気はみんな休ませる。「うつしてはいけない」というのが鉄則になっているのだ。

 ところが、近頃、こんなやり方のツケが、しっかりと回ってきた。
いい歳をした大人が、オタフクカゼや風疹やにかかって、ウンウンうなるなんてことが珍しくなくなった。こんな病気は、幼いうちにかかれば、およそ軽くすんで一生の免疫もできるというのに。

 カゼなんかでも、かからないように大事に大事に育てた子が、ひょこっと重症になるのをみることがある。カゼは種類が多いから、一度やれば二度とかからないなんてわけにはいかないが、それでも何度もやっていれば免疫はついてくるはずなのにだ。

 それに、なんだか、子どもも大人も、病気に耐える体力と精神力が衰えてきた感じがしてならない。大した病気でもないのに、今にも死にそうな悲鳴をあげる。そして、薬や医者に頼ろうとする。自分で病状を判断し自前で手当をする知恵も捨て去ろうとしている。そんな有り様では、震災のようなピンチに見舞われたときに、お手上げになってしまうのではないか。

 そんなことを考えると、やっぱり、病気は、ある程度ではあるけれど、かかっていくほうがよいのだ。



 お読みいただけば十分でしょう。
 このほか、真偽を確かめたわけではありませんが、野口整体などでは、「うまく風邪を引いてちゃんと経過させれば、その年は他の病気をせずにすむ」というような考え方をされていると聞いたことがあります。

 ここでの風邪はおそらくインフルエンザではなく感冒(ウィルス系ではないもの)を意味すると思われますが、風邪の症状を経過する(人為的に中断することなくプロセスを経験する)ことにより新陳代謝を促進し、調和を取り戻し、免疫力を回復するとしたら、おたふく風邪や風疹、水疱瘡などのような本来の意味の免疫だはないとしても、これも同じような観点で観られるメリットの一つとみなしてよいと思うのです。


 以上、現在私が考えている病気についての観点を列挙してみました。
もちろん私は医師ではないし、厳密な裏づけデータを取っているわけではありませんから、批判されても明確にお答えは出来ないと思います。
 しかし出来ますことなら、同じような観点をお持ちの方々と意見交換しながら、ますます観点を広げて行きたいのです。

そしてそれらを足がかりに、人々が、対症療法ではなく、病気や症状の価値を生かしながら、本来の「心身調和の取れた健康」を回復増進する機会を持たれるようお手伝いをするという角度から、健全な社会作りに 少しでも貢献できればと願っております。

つたない一文ですが、皆さんのご感想、ご意見などいただけましたら嬉しいと思います。
by mahorobanokimi | 2006-07-07 20:02 | 観点(2)病気の意味を観直す